昭和52年08月19日 朝の御理解
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」
最近は、どこでも信心共励会というのが、非常に盛んになりまして、ここでも各地区地区の共励会、各支部の共励会。先日からは宮崎ではこちらの先生をお迎えしてというので、文男先生が向こうからわざわざ迎えにみえて、送ってみえると言う様なまあ熱心な。そして一日をもう一生懸命信心の稽古に、そして大変おかげを頂いて、お礼に出てみえたんです。今日は矢部地区の共励会。
昨夜の月次祭に皆さん参って来ておりましたが、その芯になります後藤さんという夫婦が出て参りまして、こんな暑い時期で御座いますから、もうそれこそ山の中なんですよね、それこそ一軒二軒の三軒家でもつような山の中だそうです。私行った事がない。いつでしたかむつ屋の信司郎さん共励会に行って、たばこが無くなったからたばこを買いに、そしたら山ですから下の方まで買いに行かにゃんお店がない。
それでもう暗闇まで懐中電灯点けて行きよったげなが、薮の中からバサバサと音がするけんもう、それこそ猪が出るっちゅう話聞いとったから、猪でも出て来たと思うてもうビックリしたら、まあウサギじゃったと言う様にですね、もうその家の周囲に猪やらウサギやらが出る様な山の中だそうです。それでも神様の御ヒレイというものはね、そういう薮の山の中にまで、もう次から次ぎとその、行き伝えてお参りをして来る。もう後藤さんと言や、まあ言うならば、今でもあまり相手にしない。
友達があっても、友達寄り合いでも加てんち、言うごたる感じの事だったらしいんです。所がその友達がこの頃はその、まあ「後藤さん後藤さん」と言うて、選挙なんかになると村会議員、村長さんまでが参って来るです。もうほんとに親戚でもあんまりお付き合いしてなかったのが、この頃からは従兄弟さんの結婚式で、大変な問題が起こって親戚中連れてここに参って来ました。
もうそれこそその結婚式には、自分は呼ばれてもいなかった時には、けれどもあただに断りを言うて「そのあんたが参りよる神様に連れて参って、どうぞお取次をしてくれ」と言った様なね、とにかく次から次とおかげを頂いておるが。夕べ「こんなに暑う御座いますから、もう夜じゃなくて昼ね。それこそ山の中で野外共励会をしたいと思いますから」とこう言う訳です。「そら私も出ろうごたるの」ち私が言いましたら、本気にしてから「どうでんこうでん親先生も出て下さい」ち。
まあ中々出来ませんけれども、まあその色々に思考がこらされるとか、又は色々な工夫をして折角遠方から先生方が来て頂きますから、又その為には周りの人達も沢山集まって貰って、今日はその野外で共励会を、涼しい所でしたいとこう思う、というお届けがありました。これなんかは、愈々信心に工夫を付けておる事がよく分かりますですね。信心の矢張り工夫をするとか、練り出すとかというても、私はおかげに繋がる練り出し方じゃないといけないと思うですね。
折角信心の共励をして、ケンカ別れになったちゅうな例はいくらでもあるんです、ここではありません。所謂討論会になってしまう訳ですね。「どうしても、あげな共励会にゃいっちご行かん」ちゅうごたる風になってですね。そら信心問答ですから、それぞれの信心によって色々違いましょうけれども、愈々頂いて帰る時にはですよ、今日はおかげ頂いた、信心が分からして頂いたと言う様な、私は共励であり練り合いでなからなければいけない。これをただその「練る、練る」というてもです。
楽な方へ練る人があります。自分の都合で練って行く人があります。だから練り合うと言うても矢張り、又は「わが心で練り出せ」と言われても、その練り出された所がおかげであり、有り難いというものが練り出されて来る様な練り出し方でなからなければいけないというところにです、矢張り教えを本気で頂かないと頂き違いと言う事になります。もう昔椛目の時代でしたけれども、椛目の上に吉木と言う所があった。その時分吉木からもう毎日ひと連れお参りがありよりました。
そら次々とおかげを頂いて、あげんとでおかげ頂くなら、吉木の村中信心する事なるばいと言う様な人達が参って来ておった。それがひとつ一つおかげを頂いたんです。ですから皆んながビックリする様なおかげを頂きましたけれども、何と申しますでしょうかね、練り出し方がよくなかったんですね。例えば宅祭りなんかを吉木中で、まあされます。そうするとその、お供え物をぬいで回ったり、お金をぬいで回ったりと言った様な事があって、まあその色々批判される。
非難される様な事があって、とうとう現在では吉木からは一人も参って来ません。あの時分は吉木お月次祭ともなるともう、三分の一くらいは吉木でした。北野の人達がもう悋気してから「もう親先生は、吉木の方にばっかりひいきなさる」と言った様に、問題が起こるように多かった。それからここの筒井という片瀬の横の筒井というとこ、筒井がもう村を上げて参って来よりました。けれどもこれもやっぱりその、練り出し方が悪かった訳ですわね。とうとう今は筒井からは一・二軒お参りをして来るだけです。
まあその時分時分のまあ教会の力というかその程度というか。甘木の親先生の甘木に布教に出られた時に、一番始めに参り出したのが馬田って言う所があります。その馬田の部落の人達が全部でお参りをすると言う様なその、一番始めは状況だったそうです。そしてもう、まあ大変おかげを頂いたんでしょうけれども、甘木にも今は馬田から一人もお参りがない。そういう矢張り例が御座いますですね。それが矢張り信者が沢山出来る。出来るとお互いの意見が衝突する。
してもう「信心してケンカせにゃんごたるならば、信心してこげな心ば汚さにゃんごとあるならば」と言う様な事になり兼ねないですよ。特になら、「私の地区で共励会をして下さい」と言ったような時には、もうそうとう燃えとる時ですからね。ですけれども、中心になる人だけの責任じゃないでしょうけれども、まあおいおいとそのまあそれとなりの信心が、まあ返って衝突の形になって、そして結果は村中上げてお参りしとったのが、村中上げてお参りせんごとなって来る。
そういう結果にさえなりますからね、練り合うというてもわが心から練り出すというても、おかげの頂けれる言うならば、有り難うなれれる為の練り出し方じゃなかにゃいけん。ようと話を聞いてみると「成程、そげな事を言わっしゃるなら腹も立とう」というたらそれまで。その腹の立つような問題を練り合わせて頂くと、返ってお礼を申し上げにゃならん様な事であったと云う事になって来るんですから。お互い心して共励心して練り出すと言う事にならなければいけません。
「話を聞いて助かる道」今度は「話を聞くだけが能ではない、わが心からも練り出せ」様々に練り出させて貰う。そしてその結果が有り難い事になる様な練り出し方でなからなきゃなりません。そこでね私はどう言う様な練り出し方をするか、いいかと言うともう是は昔頂いた御理解の中に「先ずお参りをする時間を練り出せ」と神様が仰ったね「忙しか忙しか、お参りしたいと思うけれども」と言う人でもです、なら一時間なら一時間早起きをする。一時間なら一時間例えば九時に寝よったつは十時に寝るように。
お参りをする時間を先ず練り出さなきゃいけません。どげんお参り出来んという人でも、段々信心が有り難うなってきたり、又は問題が起きたりするとです、「あんた参られるじゃんの」と言う様な感じです。「参られん、参られん」と言っとるばってん、いやそりゃもう、それこそ尻に火が点くごたる事が起こってから、お参りせなおられんけん参る。だから何時も尻に火の点いたごたる気持ちで参って来りゃええ。もう練りだす事です。信心が楽になるとすぐ楽な方へ楽な方へと練り出す様になります。
次にはね「お賽銭の練り出しを願え」と仰る。お初穂の練り出しを願わにゃいけません。もうそれこそ是は絶対というていい程、この所に願いを掛けますと、始めから誰でも楽な時ばかりありません「日に日にこれだけのお賽銭と、是だけのお初穂どうでも」と言う様に神様に願いを立てさせて頂いておりますと、不思議に練り出しがで来ます。もう昔の事ですけれども、善導寺の原さんなんかは、何時もその練り出しに練り出すと言う事に、言わばお初穂捻出、ご本部参拝の費用の捻出。
もうほんとに祈りに練らせて頂いておると、もういよいよ今日はお初穂がないという時に、前の晩からまあ、こんなところにお金が入っとる筈はなかったのにお金が出て来たり、タンスの着物と着物の間からお初穂出て来たり。そりゃ不思議な事です。これは北野から参って来るある方が、椛目で当時あるお金が要る用が起こった事があるんです。それもまとまったお金です、それで幹部寄り合いに寄り合いましてね、そのまあおかげ頂こうと言う事になりました。
その人も「どうでもおかげを頂かにゃならん、どうでもおかげを頂かにゃならん」と思うけれども、中々手元が不用意でおかげ頂かれん。それこそもう思案をしいしい歩いて帰りよりましたら、ちょうど大城橋のところで、前を行きよった方が、何かポーンと足で蹴やって行きなさったんです。その後から行きよったからその、何じゃ何ば蹴らさっしゃったじゃろうかと思たところが、金包みじゃった訳です。
それも自分が「おかげ頂きたいなぁ」と言うだけ。まあ是がほんな事なら、警察に持って行かにゃんとこですよね。だからもう是は誰々さんとは申しませんけれども、神様がもうこう、一生懸命の思いと言う事になると、こういうそういう例はいくらもあるです、合楽では。ご本部参拝行く時に、ご本部参拝の金だけ拾うたという人があります。こりゃまあ普通の常識的から言うと、言うならば、いけな事ですけれども、神様がどうでもという時には、そういう金を拾わせてでもおかげを下さるです。
もう愈々お初穂がない、というとその前の晩に不思議な不思議なご都合お繰り合わせを頂き、問題はですだから本気で練り出そうという気にならなければならないと言う事です。ほんとにねもうその日、昨日からも言うその日暮らしというか、もうその日その日のおかげを受けていけば立ち行く訳ですけれども、その日その日に立ち行くと言う事が素晴らしいです。素晴らしい信心体験です。
成程時間を練り出すと思い、お初穂を練り出すとこう思いますけれども、練り出すのじゃない、神様がその一心に練り出させて下さるんだなぁ、いやお参りをさせて下さるんだな、お供えはさせて頂くんだな、と言う事が分かって来るです。自分が参りよるとじゃない、自分がお供えしよるとじゃない。神様が言うならばお参りをさして下さる。先ず練り出すというても、練り出すならば先ずお参りをする時間を練り出せ「もうこんな訳で御座いますから、もうお参りが出来ませんけれども、どうぞよろしゅう。」
話を聞くとご無理ごもっとも。「そりゃぁお参り出来なさらんじゃろう」とこう言う様な人でも、信心の有り難さが分かって来ると、お参りの出来ん筈の人がお参りが出来る様になります。そして分からせて頂く事は。「これは自分で参りよるとじゃない、参らせて頂きよる」とこういう事に成ります。朝の御祈念なんかでも「お参りしよう」という一心があれば、寝忘れておる様な時に、神様が起こして下さる様な例が沢山御座いますでしょうが。神様が「参りたい」という一念に。
「参らせてやろう」という働きが起こって来る訳です。記念祭にもうほんとに不思議な、昨日お届けがありましたが。月次祭に。それこそ月次祭の度んびに御神酒の一本もお供えしたい、と思うけどもお供えのできないという人が。「今度の記念祭には、お酒を一樽お供えしたい」と思うという、昨日お届けがあった。もうそれで充分きっかけが、今日でもお供えが出来る様にお繰り合わせを頂いたんです。もうとにかく願いですよね。酒いっちょ練り出した。だから、中にお酒を入れた方が良いでしょうか。
まあ小切手、お金ならお金で料でお供えをさして頂いたほうが良かろうかというお届けがありましたから「そりゃあんたの思いじゃから、矢張り中に御神酒を入れたが良かろうな」と言うて、それじゃ改めて又早くから言うといて、樽の準備をしなければならんからという、お届けが御座いました。思いです先ず練り出すというても、ただ無茶に練り出しよると、それこそケンカ口論になる様な練り出し方にもなりかねない。
又はそれでおかげを落とす様な、まあ楽な方へ楽な方へと練り出すような練り出し方ではいけない。それが有り難いというものに繋がり、それがおかげに繋がる様な練り出し方でなからなきゃならない。為には先ずひとつお参りをする時間を練り出し、先ずお初穂の捻出を願え。そういう信心から練り出されて来るのならば必ず、有り難いおかげの頂けれる、言うなら練り出しができると思います。それと後藤さんではないですけれども。村内の人だけが相手にせん様な。
まあ兎に角そしてあの火事になった時のあのおかげの、あれのはっきりしたそのおかげに村内の者がビックリしてしまってね、そしてそれこそ山小屋の様な家に居られたのが、まあ古い家ではある学校の先生が住まわれる家を、払い下げを受けましてね。そしてそれをあのもう元よりもだからあの立派な家に住み、元よりも例えば自分達の着る物ひとつでもです、もう子供達でも何でん、もうほんとピシャッとした。町屋の子供ん事着抜けた洋服を着てから参って来ます。
そしてなら共励会ともなると、もう何かとそのいろんな準備から、それから又は人に対する、それこそ実意丁寧、愛の心を持って人に伝えていくという働きが起こっておるそれを有り難い。今日は山の涼しい所で、野外の共励は始めてでしょうね、ここでそういう思い付きをした事は。勿論山の中だから出来る事ではありますけれども、ほんとにあの自然の風物を眺めながら、耳納山の景色を眺めながら、涼しい所でよい共励ができる。練り出し出来る事だろうと思います。
先ず何と言うてもひとつ捻出するというけれども、神様のおかげを頂いて「成程お供えはさせて頂いておるのだな、成程おかげを頂かなければお参りも出来ん、お許しを頂かなければお参りも出来んもんだな」とそのお参りの時間を捻出させて頂く様な信心からそれが分かるようになる。そこに自分の我がなくなる。自分が参りよるとじゃない、自分がお供えしよるとじゃない、お供えさして頂きよると、お参りさして頂きよるとと言う事が分かって来る様な信心をね、目指さして頂かなければならんと思うですね。
どうぞ。